秩父の別荘に泊まってきた。山の中のど田舎で、馬鹿でっかい百年の家だから、訪問者は一度行ったら怖がって、もう一度行きたいのリクエストは少ない。連れて行くときは皆でゆけば幽霊も出にくいの理論で団体で案内している。

 昨日は一人で泊まったが、何せ大自然独り占めだから、贅沢の極まりと思っているので楽しくてしようがない。秩父は今昼は暑いが、よくしたもので連日夕立が来る。何時に帰ろうかと算段したが、夕立が来る気配があったので、味わってから帰ることにした。夕立ストリーはかんかん照りから黒い雲が湧いてきて、急に暗くなってくる。そこに生冷たい風が吹いてくる。すると激しい雨が襲う。熱帯でのスコールそのものである。

 今回はコーヒーの飲みながら、縁側で鑑賞したが、中々のものであった。大きい雨粒に台風以上の迫力ちなり、堂々の大嵐となった。更には雷までがらがらどーんと賑やかに華を添えた。まさに完成された夕立劇場で、存分に楽しめた。演劇時間はほんの三十分で、中身の濃い出し物である。ここにくると、故意に見せてくれるのではないかと思うような自然ショーがある。この世で初めてみた美しい雪降り景色をみたことがある。それも十五分ぐらいで積もることはなかった。

 そういう掘り出し物があるので、月に一回は訪れている。今回泊まりの夜、はたと気付いた。虫がいないのである。例年だと、大量の蛾や虫が灯りを狙ってくるので、すだれを屋敷に張り廻らし、家の中には遠慮してもらっている。それでも数匹はかいくぐってくる。ところが蛾一匹も来ないのである。蚊もやってこない。それがここ二年ぐらい著明である。昼間はセミも鳴かないし、蜂も挨拶に来ない。鳥の泣き声も聞こえない。以前から気になっていたが、顕著化してきた。

 東京でもすずめがいなくなったと言われだしている。東北では蝿が大量発生しているらしいが、東京や秩父では蝿は数年お眼にかかったことがない。蜜蜂崩壊症候群とか蜜蜂いないいない病とかいわれ、苺ができない、葡萄が実らないの実損があり、蜜蜂へのウイルス感染ではないかと発表する学者もいる。

 多くの昆虫が消えてしまった。すずめもいなくなり、鳥もいなくなった。何故だろうと考える(明日があるの調子で)。もしか、すると昆虫や鳥は去って行ったのではないか?、と考えた。

 何故・・・大きい災害があるから・・・と。船が沈む気配を察し、鼠は逃げ出すという。日本全国蜂もすずめも消えているのか知らない。すくなくとも自分の身の回りでは減少している。そろそろ、関東大震災でも・・・と冷や汗が出た。

 東北大震災中は秩父で運転中であった。結構ゆれたが秩父では大地震だとは思わなかった。浮世を離れ、楽しく過ごし二泊した。次の日大学の研究室にゆき呆然とした。本棚から本や置物が外に投げ出されていた。皆の顛末記を聞いてびっくり。

 地震ではどこに自分がいるかで生死は決まるものであって、助かろうとして助かるものではない。万が一があるかも知れないが、天が落ちて来ないかと杞の国の男が憂いていた(杞憂)ようにはなりたくない。やって来たら運まかせである。明日ははいずこへの身ぞ、と思い、今のうちにつぶやきを書かないと、つぶやいている。

 今回の大震災後、巷での人々の振舞いに変化が起きている。人々に助け合いの精神が溢れてきている。特に若者にその傾向が強い。駅ではエスカレーターに乗るとき、以前は老若男女我関せずで乗り込んでいたが、互いに譲り合う姿勢が輩出した。電車の中でも若い人は積極的に座ろうとしなくなった。そして、若い人は震災地に行って何かしたいと自ずから申し出ている。

 温泉に浸かる猿、芋を洗って食べる猿のように新しい文化は若猿が作り出すので、震災による新文化が若者から育って来たといえる。戦後廃墟から団塊の世代のガンバリズムが生まれ、そして終焉し、現在はその反動としての自分の生活が大事という冷めた成人の文化の時代になっていて、日本が元気なくなっている。今、神戸、東北の大震災に出会い、奉仕の精神に持った新人類が生まれつつある。その若者たちが将来引っ張ってゆくであろうから優しく明るい日本が期待できる。

 古来、日本人は思いやりのある助け合いの民族なのである。古来とはいつの時代からといえば、紀元前からである。このことが中国の書に記してある。書とは「魏志倭人伝」である。この書は三国志の中の「魏志」に日本(倭)人のことが書かれている(魏志倭人伝)。卑弥呼が西暦239年に魏国の皇帝に遣使を送ったが、その時の日本のことを聞き取ったことが記されている。約二千文字を記している。

 この中に日本人の特性が書かれていて面白い。曰く、「日本人は子供も大人も顔、身体に入れ墨している。潜って魚や貝を採るのが上手である。気候は温暖で、生食している。集会には父子、男女の別がない。酒も飲んでいる。百歳・八九十歳の長寿者には手を打って尊敬の念を示している。偉い人は妻が四・五人、下の者もニ・三人いる。奥さん方はふしだらなことをせず(淫せず)、嫉妬せず、盗みもせず、争いは少ない。法を犯すと、軽い場合その妻子を取り上げ(没し)、重い場合はその家を潰す(門戸を滅す)と書いてある。

 中華思想では中国人が第一で、他は劣等民族である。倭国(小さい国)は東南の大海にある超ど田舎と書かれているはずであるが、秩序ある民族とほめて書いてある。日本人の性格は中国人と異なっており、紀元前から出来上がっていたとみてよい。この日本人の性格は災害大国で、今度のような大震災を経験し、それが秩序を守り、争いはしない、助け合う民族を形成したと、私は考えている。今回の大震災もまた民族の美点形成を促す効果は発揮したといえる。

 日本人は地震前にタイガーマスク達がランドセルを送りあったように、優しい気配りの民族なのだ。これが有る限り日本は安泰なのだ。アメリカ、中国の顔色を窺いすぎると気疲れするので、日本人は皆の不幸を自分のものとして受け取って、そちらに専念すればよい、とつぶやいて終わり。

 

 先月の衆議院での内閣不信任案事件はあきれて言葉にならないお粗末事件であった。テレビで街灯インタービューで、こういう非常事態に何やっているんだと呆れ顔と怒り顔が混じった声が満ちていたが、全くその通りである。これは職業政治家(政治屋)が自己利益でやっているので、こういう氾濫劇が生じることになる。

 自分たちの利益のために不信任案を提出し、ピエロ役の方が相手に秘策を教える。ために土壇場で逆転ホームランを打ち断然有利となる。すると提出側は絶望的にり毎度お騒がせの方は雲隠れする。そして勝利した方は、辞めという切り札に賛成したにもかかわらずそういう気はないと訳の分からないことをいう。約束どおり辞めますと男らしくはいわない、じめじめ、ねっとりの世界なのである。全て喜劇である。

 こういう事態になるのは、今の政治屋が義理と人情を持ち合わせていないためである。義理とは正しいと思うことを突き進む信念である。一般には昔受けた恩を恩で返すことに使われる。人情とは困った人に同情し助けることである。

 今回の震災で、日本人はこの心を保持していることがはっきりと分かった。過去に台湾統治していた時代に台湾人に育てたことが充分に根付いていた。しかし、政治化にはほとんど消失していることを今回の事件から知らされた。恩を受けた人に義理立てた方はたった一人だったのである。あとは親分の意思と反対に不信任案反対にひる返ったり、棄権という当たり障りのない行動に出ている。

 義理と人情は世界に類のない日本人の美徳である。震災にみるように皆何か被害者のために何かしてあげたいと本気になってやっている。この美徳を政治屋さんには是非にもってもらい、日本のために滅私奉公してもらいたいものである。

 

 

 これは当たり前のことであるが、日本では当たり前ではない。このことを如実に自分に認識新たにさせたことが昨日あった。

 夕方、池袋の喫茶店に入った。ここはコーヒー一杯五百円であるので当然客は少ない。おまけに携帯電話の煙突も立たないので、二重苦のようなものであるのに客はまあまあいる。静かな時間を過ごすには打ってつけなのである。私もコンピュータをかばんに積めて、ブローグ記事を書かねばとう強迫概念的動機からここに入った次第である。

 すると、隣席から女性の英語を訳す声が聞こえる。木が小鳥を守ってくれないなどたどたどしく英語を訳し、目の前の外国人男性に告げている。その外国教師の解説する日本語が聞こえてくる。どうも英会話の勉強らしい。しかし、英会話ではなく完全に英訳の勉強である。文法の勉強タイムとしかいえない。

 英語は、聞く話す(会話)、読む書く(読書き)の勉強に二大別できる。会話は、耳から入り、大脳の連合分野で理解判断され、運動神経に伝えられ話すという一連の脳活動を経る。一方、読書きは、眼から入り、大脳の連合分野を経て手の運動神経に伝えられる。両者は全然異なる中枢と経路である。読書き中枢を経由して喋れというのであるから乱暴な話である。読書きを一生懸命にやっても会話には役に立たない。

 その後外国人の教師は帰っていったが、中年の女性は辞典を引きながら一生懸命に頑張っていた。私も会話と読書きは全く異なるものであると気付くまでは、こういう勉強法だったと懐かしく感じ、女性に同情していた。女性はそういうことを気付くはずがないのだから問題は教師にある。幾人もの日本人を教えてこの勉強法は無駄と分かっているはずなのに、なぜかこの方法でやっている。

 英語会話のプロならリスニングを徹底的にやるはずだ。そして、真のプロなら、半年で喋らせて見せる、その代わり大金はいただくという発想が出るはずである。日本人への英語教育は会話を可能とすることが至上であり、半年で喋るようにしてみせる、その代わり大金はいただくという気概をもつべきだ。

 幸いに私は英会話できる。ラジオやCNNニュースではそんなに理解できるわけではないが、一人旅行には全く支障がない程度のレベルはある。旅行には英語が大いに役立ってお得なのである。

英語は実用英語であって、教養英語になるべきではないと、横の席でつぶやいていた。

 東日本大震災の被害者で、5月29日で死者15269名、行方不明者が8526名となった。行方不明者数は、震災直後と捜索が始まった頃に急激に増えるのは当然だが、その減少率が鈍いのである。もう新たに死体が見つかるのはほとんどないので、身元確認が進まないので減らないのだろう。

 身元確認が進まないのは肉体と精神の関係を考えねばならない。人は肉体だけでその人と確認できないのである。たとえ長年連れ添ってきた配偶者でさえ、沢山の死者から選ぶとなると判別しづらくなる。いつもは死んでゆくのは一人だけだから、その人であると断定できるが、沢山の中からの選別は難しくなる。いつもはめていた指輪、その日に着ていた服など遺留品から自分の妻、子供だと判った、という新聞記事やテレビ場面が多い。

 人の肉体は精神が動かしていて、その人なりを作っているのである。似たような犬が並んでいると自分の愛犬は区別が付かなくなる。自分を見て激しく尾を振り、呼べば愛犬といえるのであり、顔つきからでは人は判別できない。その人らしさは姿勢、歩き方、話し方などで判断しているのである。

 外国での死生観は肉体は魂を入れる器であって、魂が人を動かすとする。従って魂が天に昇ると肉体は物質となる。日本人は死は魂が動かないものとする。従って、病院で死んで解剖をお願いするとほとんどは拒否される。多くは五体満足で行かせたいと遺族はいうのである。日本での解剖率は非常に低いので、かつては解剖率上昇を躍起にやった時代があったが、最近はそれもやらなくなった。私はむかし死体膝を用いて実験していたが、遺族に依頼すると、三途の川が渡れない、といっていつも拒否されていて、外国留学して充分に研究できた経験がある。

 その人なりは本人の心の表出である。肉体の病気は精神の病みが非常に多い。いつまでも自分の不幸を心にとどめず、明るい希望をもつことがその人を輝かすことになる。日本は自然の厳しい国であるが、皆の団結心と不屈の心を作ってくれる。また、十年もすると震災の傷も癒えて街も外見的には綺麗になるだろうが、日本人の助け合いの精神は根付き、より住みやすい国になるのだろう。